父の話
この写真は、確かフランスのアルザス界隈、私は26歳の時のものです。父が1980年代にアルザスに工場を作り、長になり、何年も欧州に単身赴任していました。その工場の25周年パーティーに参加するため、家族ごと、な現地に足を踏み入れる旅でした。旅費も持ってもらい、ついでに家族が住んでいたイギリスも寄りました。それでも父が私にカメラを向けると、恥ずかしがり抵抗し、斜に構えたこんな写真です。有難さを分かっていなかった。アルザス市長宅でお食事、という貴重な経験もしました。
父の葬式の時に、10年以上、父が海外単身赴任していた時の写真をアルバムにまとめ、来賓の親族に見ていただきました。たくさんの人に会い、食事をし、ワインを読み、異国を学び続けた父でした。
東京の自宅には、不在時も定期的に日経新聞と日経ビジネスが届けられました。三女で、家で遊び相手もおらず、夏休みや休日の、私の暇つぶしはそれらを読むことでした。
それに比べ、今の私は…。ちゃんと出会い、外に出て、学び続けているでしょうか。
反省仕切りです。
もっともっと勉強し、人に会い、無意識の力をあげたいです。残された母の話ももっと聞いてあげたいです。
目の前の週末のイベントをまず、成功させて、そのあとは、仕切り直して環境を整備します。ありがとうございました。
毎年梅が綺麗です。一年、あっと言う間です。
その背中を見てきたので、私も海外に壁を感じることが少なく、「起業」という選択肢も取ったのでしょう。
もっと日々対話していきます。
父の写真集です。
こちらが葬式の時に私が作ったコラージュです。
30~40代の時は欧州が多かったですが、その後は台湾と中国に5年いて、60歳を過ぎても中国の会社に喜んでコンサルティングに行っていました。
寒山寺を信頼して通っていたようです。安藤さんも写っていますね。
上海時代 日経新聞にも名前が載りましたね。
欧州にて ’89年 とあります。私は9歳。数ヶ月に一度しか帰宅しませんでした。
フランスのアルザス市と工場設立の際、友好関係を結び、灯篭を寄贈しました。
この眼鏡、覚えています。贅沢をしないで子供3人を育ててくれました。
私が生まれる前には2年、家族とイギリスに滞在していたそうです。その際周遊していたようです。
語学が堪能だったわけではないと思うのですが、グローカライゼーションが上手な人で、どこにでも溶け込んで慕われていました。
たまに帰国するときには、ぬいぐるみや、ワイン、スウォッチの時計を買ってきてくれましたね。
お陰で時計が好きになり、各国の通貨を集めたりしていました。
面倒見もよく、慕われていました。
私が大学に入ると同時に、故郷の金沢に移住、根上の工場長に就任して、4年勤めましたね。
とても楽しかったことでしょう。
金沢が大好きで毎年必ず行っていましたね。
今から私に何ができるでしょうか?
最後は孫2人にも恵まれ、念願の男子も抱っこできましたね。
元気ですよ。
闘病で余命が・・という話の際にも、「言わなきゃわからない」と言って、マチュピチュに行って皆を驚かせました。
色々、心の中で会話してみたいと思います。
「ゆきちゃんそんなんじゃだめだよ。もっとやらなきゃ。」
必ずそういわれる気がします。
がんばるね!自慢の娘になりますね。
ちょっとのストレスやプレッシャーになんて負けない人になります。
ありがとう。